背教者について。

最近、現役のJWと思しき方からメッセージを戴きました。

あなたは背教者ですよね。と言うものです。

最初は、真実を語っているのに背教者呼ばわりされるとはなんと失礼な。と思いましたが、よくよく考えて見ますと、現役の方からその様に見えるということは、かえって真理がどちらにあるかが明確になって喜ばしいことだと思いました。すなわち、私は聖書からしか物事を伝えていませんが、一方現役のJWの方から観れば、それが背教と映る訳です。

それで、背教について少し書いてみようと思います。

洞察では、真の崇拝から身を引くこと、それらを放棄すること、主義や信仰を完全に捨て去ること。となっています。パウロは背教者呼ばわりされました。そうです、エルサレムの宗教指導者達から見れば律法から離れ落ちた者だったのです。一方、神の目からするとその宗教指導者たちが背教者でした。

律法は背教を非としています。出2038イスラエルは多くの祭司、王、民たちが背教しました。律法学者や宗教指導者達から見るとイエスキリストは背教者に写りました。真の宗教がイエスキリストによって明らかにされたあとの、クリスチャン会衆にもヒメナオ、アレクサンデル、フイレトなどといった背教者が現われます。彼らは復活はもう起きた、それは霊的な意味のものであり、将来における王国のもとでそれ以上の復活は無いというものでした。

ものみの塔の説明によると大的な背教は西暦3世紀に起きます。政治と宗教の癒着です。その意味でいわゆるローマ教皇を擁するカトリックの教えは背教です。その後の宗教改革によって派生するプロテスタントも、カトリックから言えば背教です。

このように、背教という言葉は相対的に使われすぎていますが、厳密に言うと絶対的なものに限定されるべきです。

エスのたとえによれば、背教は雑草が蒔かれることによって生じます。蒔いたのはサタンです。マタイ13章テサロニケ2章の説明によれば背教は既に始まっておりその作用が生じていると言っております。前述のヒメナオとアレキサンデルがその事例です。

絶対的な背教は神の言葉聖書から離れ落ちることです。又、イエスの目に見えない統治を否定することです。マタイ281920

そのことから言えばむしろ、ものみの塔が背教のレッテルを貼られても当然です。

聖書には存在しない統治体や思慮深い奴隷がイエスに代わって君臨し。度重なるハルマゲドンの予告とその外し。世代や年代の誤った教え。その度に人の生活は犠牲にさらされ。挙句の果てに、信者を騙して寄付を集め豪華な施設や建物を建てては売却を繰り返す。

これが背教で無くていったい何なのでしょうか。児童性虐待を堂と隠蔽する組織が背教でないとすれば一体何様でしょうか。

私を背教者呼ばわりした、おそらく現役のJWの方。どうぞこの質問に答えてください。

たしかに、既に真実の宗教から離反したものみの塔から見れば、わたしは背教者です。しかし、絶対的な意味において私は背教者ではありません。イエスと同じパウロとまったく同じ真の崇拝者です。

最近コリント11章を読んでいて、今日のものみの塔は光の使いにそっくりだなとつくづく思いました。

先日、先日の奉仕報告。特別配布10枚

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